豊臣軍羽柴 → 豊臣
豊臣秀長
とよとみ ひでなが
「大和大納言」
1540–1591(享年52)
- 官位・役職
- 従二位 権大納言
- 領国・本拠
- 大和・紀伊・和泉(郡山城)
- 旗印・家紋
- 五七桐
- 3Dで見られる合戦
- 6合戦
肖像画・出典: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
羽柴秀吉の弟として尾張中村に生まれ、農民から身を起こした兄に早くから付き従った。派手な武功よりも、調略・内政・兵站、そして諸将の調整に非凡な才を見せ、兄の天下取りを影で支え続ける。中国攻めでは但馬・因幡を平らげ、本能寺の変の後は兄とともに清須会議に臨む。天正十三年の四国攻めでは総大将として長宗我部元親を降し、九州攻めでは日向方面を率いて根白坂に島津勢を破った。温厚篤実な人柄は敵味方から信を集め、大和・紀伊・和泉に約百万石を領して大和郡山城を本拠とする。秀吉と気位の高い大名たちのあいだに立つ「調整役」として政権を安定させたが、天正十九年に病没。「もし秀長が生きていれば」と惜しまれるほど、その死は豊臣家のほころびの起点となった。2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、この「天下一の補佐役」秀長を主人公に据えた物語である。
生涯と合戦金の丸は3Dで見られる合戦
- 1540天文九年
誕生
尾張中村に、のちの秀吉の弟として生まれたと伝わる。
- 1577天正五年
中国攻め
兄の中国方面軍に従い、但馬・因幡などの平定で戦功を重ねた。
- 1581天正九年
鳥取城の戦い
秀吉の弟。但馬を平らげて因幡へ入り、西面を固めて毛利後詰の道を塞いだ。兄を支えた地味だが確かな一手。
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- 1582天正十年
- 1583天正十一年
- 1584天正十二年
- 1585天正十三年
四国攻め・大和大納言
四国攻めの総大将を務め、紀伊・大和を加増され郡山城主となる。
四国攻め 総大将 兵 25,000 3Dで見る › 四国攻めの総大将。兄に代わって渡海軍を率い、一宮城を力攻めせず水の手を断って落とした。補佐役の真骨頂を見せた一戦。 - 1587天正十五年
九州攻め・根白坂
九州攻めで日向方面を率い、根白坂の戦いで島津勢を破った。
根白坂の戦い 総大将 兵 12,000 3Dで見る › 秀吉の弟にして九州攻め日向方面の総大将。夜襲を耐えて払暁に反撃を下令し、島津の攻勢を打ち砕いた。「天下一の補佐役」の采配。 PR「根白坂の戦い」の本を探す楽天で探す
- 1591天正十九年
病没
郡山城で病没。補佐役を失った豊臣政権は調整力を欠いていく。
ゆかりの地
よくある質問
豊臣秀長とはどんな人物ですか?
豊臣秀吉の弟で、兄を生涯支えた「天下一の補佐役」です。軍事・内政・外交に秀で、大和・紀伊・和泉に約百万石を領しました。2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。
豊臣秀長はなぜ大河ドラマの主人公になったのですか?
兄秀吉の天下取りを影で支えながら、これまで正面から描かれてこなかった人物だからです。温厚で諸大名の信望も厚く、「もし秀長が生きていれば豊臣は滅びなかった」とも語られる存在です。
豊臣秀長はどんな最期でしたか?
天正十九年(1591年)、居城の大和郡山城で病没しました。享年五十二。兄と大名たちの間を取り持つ調整役を失った豊臣政権は、その死後ほころび始めたと伝わります。
豊臣秀長が参加した合戦は?
中国攻め・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・四国攻め・九州攻め(根白坂の戦い)などです。四国攻めでは総大将を務め、長宗我部元親を降しました。