夷陵の戦いの解説
夷陵の戦いは、222年(蜀漢 章武二年)に荊州 夷陵・猇亭で行われた合戦です。関羽の仇を討つべく劉備が呉に攻め入る。長江沿いに七百里に連なる蜀の陣営を、若き陸遜は半年耐えて火攻めで焼き払った。劉備は白帝城へ逃れ、そこで生涯を閉じる。
- 年
- 222年蜀漢 章武二年
- 場所
- 荊州 夷陵・猇亭
- 時代
- 三国時代
両軍の対陣
合戦の経過時刻は3Dの時計
- 章武元年 七月1章
東征関羽の仇を討て
章武元年、帝位に即いた劉備は群臣の諫めを退け、関羽を殺した呉への親征を決した。張飛は出陣前に部下に殺され、その首は呉へ持ち去られる。悲憤の劉備は数万の軍を率いて長江を下り、巫・秭帰を落として夷陵へ迫った。
- 章武二年 正月2章
連営七百里の陣
呉の孫権は和睦を求めたが劉備は応じない。蜀軍は長江北岸の山中に沿って数十の陣営を築き、その列は七百里に及んだ。魏の曹丕はこれを聞いて「山林に陣を連ねる者は敗れる。備は兵法を知らぬ」と評したという。
- 二月〜六月3章
持久若き大都督
呉の総大将は三十九歳の陸遜。老練な諸将は「書生に何ができる」と侮ったが、陸遜は剣を手に軍令を正し、一切の出撃を禁じて猇亭に籠った。蜀軍は挑発を繰り返し、盛夏の山中で兵は疲れ、士気は緩んでいく。半年が過ぎた。
- 閏六月 夜4章
火攻め一陣を焼き、四十陣を焼く
閏六月、陸遜はまず一つの陣営を試しに攻めて手応えを得ると、全軍に茅の束を持たせて夜襲を命じた。乾いた山林に火が放たれ、風に乗って蜀の連営を舐め尽くす。四十余りの陣営が一夜にして焼け落ち、蜀の将兵は炎と煙の中で崩れ去った。
- 閏六月 翌日5章
崩壊馬鞍山の劉備
劉備は馬鞍山に登って残兵をまとめたが、呉軍は四方から山を囲んで攻め上る。蜀の戦死者は万を数え、馮習・張南ら諸将が討たれ、蛮王沙摩柯も戦死した。劉備は夜に紛れて山を下り、鎧や輜重を焼いて追撃を防ぎながら西へ逃れた。
- 八月6章
白帝城永安へ
劉備はかろうじて白帝城に入り、そこを永安と改めて留まった。陸遜は追撃を止める。魏が背後を窺っていることを見抜いていたのである。蜀が荊州を取り戻す望みは、この敗戦で永久に絶たれた。
- 章武三年 四月7章
託孤白帝城の遺言
翌年、病を得た劉備は成都から諸葛亮を呼び、「わが子が補佐に値せぬなら、君自ら取れ」と後事を託して世を去った。諸葛亮は呉と再び結び、北伐の道を選ぶ。夷陵の火は、三国鼎立の形を最終的に定めたのである。
超精密3Dで見ると合戦パスの特典

同じ場面を、標準の画質と超精密3Dで並べました。線を左右に動かして見比べられ、「引き」と「接近」で見え方を切り替えられます。超精密3Dでは、山肌の尾根と谷、3Dの森と岩、海や川の水面、田畑の筋、人の姿の兵まで精密に描きます。各合戦の1章目は、合戦パスが無くても超精密3Dで見られます。
よくある質問
夷陵の戦いとは何ですか?
関羽の仇を討つべく劉備が呉に攻め入る。長江沿いに七百里に連なる蜀の陣営を、若き陸遜は半年耐えて火攻めで焼き払った。劉備は白帝城へ逃れ、そこで生涯を閉じる。
夷陵の戦いはいつ・どこで起きましたか?
222年、荊州 夷陵・猇亭(蜀漢 章武二年)で起きた合戦です。
夷陵の戦いでは誰が戦いましたか?
蜀漢軍の劉備、呉軍の陸遜らが戦いました。
夷陵の戦いを3Dで見られますか?
はい。このページで約3分の3D俯瞰演出として無料でご覧いただけます。布陣・軍勢の動き・勝敗の流れを直感的に追えます。
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